地酒/日本酒web

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お酒の歴史

日本酒の歴史

上代以前

日本酒の起源

日本列島 に住む人々がいつ頃から米を原料とした酒を造るようになったのかは定かではないが、 稲作 、とりわけ 水稲 の耕作が定着し、安定して米が収穫できるようになった以降のことであるのは確かと思われる。日本国外には、 中国大陸 揚子江 流域に紀元前4800年ごろ稲作が始まり、ここで造られた米酒が日本に輸出されたのが日本酒の起源とする説もあるが、さまざまな点で無理があり、日本国内ではほとんど支持されていない。

日本に酒が存在することを示す最古の記録は、3世紀に成立した『 三国志 』 東夷伝 倭人 条(いわゆる 魏志倭人伝 )にある記述である。同書は倭人のことを「人性嗜酒(さけをたしなむ)」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。ただ、この酒が具体的に何を原料とし、またどのようなやり方で醸造したものなのかまでは、この記述から窺い知ることはできない。ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが 巫女 (みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠となっている。

もう一つの根拠は、「医」という文字の変遷にある。中国大陸においては、古くは同じく口噛みの製法で紀元前14世紀ごろ アワ 、 キビ などの 雑穀 から「 小米酒 」を造ることから醸造の歴史が始まったが、紀元前8世紀以降はすでに「 米酒」の時代に入っていた。これは成分的には現在の日本酒と大差ない。1世紀ごろの漢方医学の書物に、服薬に際して「酒で煎じるべし」「酒で服用すべし」といった指示が頻繁にあらわれるところを見ると、米で造った酒が医療的に重要な意味を持っていたことがわかる。

「医」の旧字体「醫」の部首である「 酉 」(とりへん)は、「醸」「醗」「酵」のように酒に関連した物事をあらわすが、これは酒を醸す 壺 が半ば土に埋まっている 象形 に起源を持つ。 さらに時代をさかのぼると「醫」の下部「酉」は「巫」であった。これはすなわち、古代において医療行為の主流が「占い」であったころ、一つの部族や集落においてそれを司る者が 巫女 であったことを示している。またその文字が時代とともに「醫」に変化していったことから、医師である巫女が、「占い」に加えて今でいう「 薬物療法 」を取り入れ、医術が進歩してきたことがうかがえる。すなわち、前述したように服用には酒が欠かせない 生薬 (しょうやく)の類を、巫女が処方して与えるようになったので、「医」の文字も「醫」に変化していった、と考えられるのである。

上代

口嚼ノ酒(くちかみのさけ)

米を原料とした酒であることが確実な記録が日本に登場するのは、『三国志』の時代から約500年も後のことになる。興味深いことに、その最古の記述は二つある。

一つは『 大隅国風土記 』逸文( 713年 以降)である。 大隅国 (今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があることが記されている。彼らはその酒を「口嚼(くちかみ)ノ酒」と称していたという。これは唾液中の澱粉分解酵素である アミラーゼ 、 ジアスターゼ を利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米という広い範囲に分布していることが知られている。現代 日本語 でも酒を醸造することを「醸(かも)す」というが、その古語である「醸(か)む」と「噛(か)む」が同音であるのは、このことに由来する。

もう一つは『 播磨国風土記 』( 716年 頃)である。神に供えた干し飯が水に濡れてカビが生えたので、酒を造らせてその酒で宴会をしたという記述が見える。こちらは 麹 カビの糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒のそれと相通じるものである。このように、奈良時代の同時期に口噛みと麹というまったく異なる醸造法が記録されているわけであるが、当時一般的であったのは後者の方であったろう。前者は大隅という辺境の地にたまたま残った古い風習を記録したものと解すべきである。

清酒の起源をめぐって

『播磨国風土記』には「清酒(すみさけ)」というものに関する記事もある。これを以て現在の 清酒 (せいしゅ)の初見とみなす説があるが、それは以下のように議論の分かれるところである。

古代 の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る 練酒 (ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようである。現在でも、 皇室 における 新嘗祭 (にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した 白酒 (しろき)、 黒酒 (くろき)という二種類の酒が供えられる。黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒である。これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。

さて、このような粘度の高い古代酒から、今日私たちが見るような透明でサラサラとした清酒(せいしゅ)を精製することは決して不可能ではなかっただろうと思われる。濁りを漉しとるだけならば、布、炭、砂などで濾過する原始的技術があったからである。ゆえに、清酒(せいしゅ)が日本酒そのものの誕生とほぼ同時期である上代に造られたと考えるのにはさほど無理はない。

しかしながら、一方ではこの時代の古文書、たとえば 天平 年間の諸国の『 正税帳 』などには「浄酒」(すみさけ/すみざけ)といった語も出現する。よって「清酒(すみさけ)」は「清(きよ)め」など祭事的な用途に使われる酒を意味していた、という説が生まれた。

いずれにせよ清酒(せいしゅ)は、やがて『 菩提泉 』に代表されるような平安時代以降の 僧坊酒 にその技術が結集されていくことになる。また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良 正暦寺 には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。さらに 兵庫県 伊丹市 鴻池にも、同市が文化財に指定した「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑である 鴻池稲荷祠碑 (こうのいけいなりしひ)が建っている。

麹造りと醴酒(こざけ)

『 古事記 』には 応神天皇 (『 新撰姓氏録 』によれば 仁徳天皇 )の御世に来朝した百済人の 須須許里 (すすこり)が大御酒(おおみき)を醸造して天皇に献上したという記述がある。『新撰姓氏録』によれば、この献上を行なったのは兄曽々保利、弟曽々保利の二人ということになっている。そもそも須須許里なる人物が実在したかどうかは不明であるが、百済からの 帰化人 が用いた醸造法ということであれば、当然それは麹によるものであったに違いない。しかし、だからと言って、この献上より前には、麹による酒造法が日本に存在しなかったということではない。

たとえば、『 日本書紀 』によれば、 応神天皇 19年に吉野の 国樔 (くず)が 醴酒 (こざけ)を献上したという記述が見られる。 国樔 は「国主」「国栖」とも書き、奈良時代以前の日本各地に散在していた非農耕民で、その特異な習俗のため大和朝廷からは異種族扱いされていた人々である。『 延喜式 』の記述によれば、その国樔が献上した酒でさえも醴酒という米と麹を使用して造る酒であったことがうかがえるので、麹による醸造法は当時既に全国的に普及していたと見るべきである。須須許里が実在の人物であったとしても、彼がもたらしたものはせいぜい酒造技術の向上レベルのものであったと思われる。

なお、醴酒に関しては、養老1年( 717年 ) 美濃国 から献上された 醴泉 で醴酒を造ったとの記述も『 続日本紀 』にある。

朝廷による酒造り

持統3年( 689年 )には 飛鳥浄御原令 (あすかきよみはらりょう)に基づいて 宮内省 (くないしょう)の 造酒司 (さけのつかさ / みきのつかさ)に 酒部 (さかべ)という部署が設けられ、 701年 には 大宝律令 によってそれがさらに体系化され、 朝廷 による朝廷のための酒の醸造体制が整えられていった。

中古

『 延喜式 』( 927年 )には宮内省造酒司の御酒槽のしくみが記されており、すでに現代の酒とそれほど変わらない製法でいろいろな酒が造られていたことがわかる。

その後は朝廷直属の酒造組織に代わって、寺院で造られた 僧坊酒 (そうぼうしゅ)が高い評価を得るようになっていった。

数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「 南都諸白 (なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。 諸白 とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、 麹米 と 掛け米 の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう 清酒 とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた 濁り酒 (にごりざけ)に対して呼んだ名称であり、江戸時代以降も「 下り諸白 」などのように上級酒をあらわす語として使われた。

奈良 菩提山 正暦寺 で産する銘酒『 菩提泉 』を醸す 菩提? (ぼだいもと)という 酒母 や、今でいう 高温糖化法 の一種である 煮? (にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしかゆきわたらなかったと考えられる。

中世

鎌倉時代

商業 が盛んになり、 貨幣経済 が各地へゆきわたったことを背景として、酒は、米と同等の経済価値を持った商品として流通するようになった。 京都 、とくに 伏見 などを中心に、自前の蔵で酒の製造を行い、それを販売する店舗も持つ 酒屋 、いわゆる「 造り酒屋 (つくりざかや)」が隆盛し始めた。まだ十石入り仕込み桶が開発される前で、二石から三石入る 甕 (かめ)(もしくは「瓶」の字をあて「かめ」と読ませる場合も)を土間にならべて酒を造っていたようである。

室町時代

室町時代 前期には、この傾向にはさらに拍車がかかり、応永32年( 1425年 )には 洛中 洛外 の酒屋の数は342軒に達していたことが記録に残っている。当時の酒屋は資本力を持ち、 土倉 (どそう)といって金融業者を兼ねていることが多く、借金の取立てや財産の自衛のために 用心棒 たちを養っていた。 こうして経済力をつけた酒屋が、それまで酒屋とは別個の職業であった 麹 造りにも進出し、従来の麹屋の 座 と対立した。この対立は文安1年( 1444年 )、 文安の麹騒動 という武力衝突にまで発展し、その結果、京都における麹屋という専門職は滅亡し、麹座も解散した。以後、麹造りは酒屋業の一工程へと吸収合併された形となった。

またこの事件は、争いに明け暮れる京都市中の商人たちとは無縁に坦々と生産が続けられた、奈良の『 菩提泉 (ぼだいせん)』『山樽(やまだる)』『大和多武峯(たふのみね)酒』、越前の『豊原(ほうげん)酒』、近江の『 百済寺 酒』、河内の『 観心寺 酒』などの 僧坊酒 がさらに評価を高める原因にもなった。

室町時代初期に書かれた『 御酒之日記 (ごしゅのにっき)』には、すでに今日の 段仕込み や、 乳酸菌 発酵 の技術、 火入れ による加熱殺菌、木炭による アルコール濾過 などについての記述がある。

やがて、京都以外の土地でも酒屋が出現するようになり、こういうところで造られた酒が京都の酒市場に出回るようになった。京都の酒屋は、他国から市中に入る酒を「 他所酒 (よそざけ)」または「 抜け酒 」と呼んで警戒し、排除しようと躍起になった。洛中洛外の酒屋や 町組 (ちょうぐみ)からは、価格の安い他所酒の販売差し止めを陳情する願い状が、たびたび幕府の奉行所に提出されている。

しかし、この他所酒こそが、のちの日本の酒文化の中核をなす 地酒 の出発点でもあった。文明年間( 1469年 〜 1487年 )には 西宮 の『旨酒』、 堺 の『堺酒』、 加賀 の『宮越酒』などが、弘治3年( 1557年 )には 伊豆 の『江川酒』、 河内 の『平野酒』などが盛んに取り引きされたことが記録からうかがえる。また、厳密にいえばこれは日本酒ではないが、天文3年( 1534年 )には「 南蛮酒 」として今日でいう 泡盛 の『清烈而芳』が酒市場に入っていた。

安土桃山時代

日本に キリスト教 を伝えた フランシスコ・ザビエル は 1552年 、 イエズス会 の上司へ宛てた手紙の中で、「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、その量は少なくして価は高し」と、日本酒に関してヨーロッパ人として最初の報告を書いている。もちろんザビエルは、これを自文化における酒であるワインを基準として日本酒を評価しているわけだから、量や値段の印象などは興味深い。また 織田信長 に接して多くの記録を残した宣教師 ルイス・フロイス も天正9年( 1581年 )に「我々は酒を冷やすが、日本では酒を温める」などの情報を本国に書き送っている。

天正10年( 1582年 )『 多聞院日記 』によれば 奈良 で十石入り仕込み桶が開発された。これによって地方においても酒の大量生産が可能になり、さらに 地酒 文化を花開かせることにつながっていく。 戦国時代 の 群雄割拠 が諸国に文化的な独自性を持たせたことも追い風となって、それぞれの土地の一般庶民の 食文化 との 相互補完 をベースとしながら、各地に数々の新しいローカルブランドが誕生し、味、酒質、製造量などの点において多様化が進んでいった。

このころ以前は、 新酒 よりも、 古酒 が圧倒的に高級とされ値段も高かった。古酒は茶色がかって、現代の紹興酒のように醤油のような香りがあったと推定される。しかし酒の大量生産が可能になると、酒を輸送するのに用いられるコンテナも、 壺 や 甕 ではなく 樽 が主流になっていった。古酒は密閉されてこそ酒質が保たれ、壺や甕はそのために工夫されて発達してきた醸造器であったが、樽では密閉が効かない。このため古酒が流通しにくくなっていき、人々は新酒をしだいに飲むようになっていった。新酒への需要が高まり、値段も相対的に高くなっていった。

16世紀(1500年代)半ばには 蒸留 の技術が九州に伝えられ、 焼酎 が造られはじめたが、これらも 芋酒 (いもざけ)などとしていち早く当時の酒の中央市場であった京都に入っている。 織田信長、 伊達政宗 、 大友宗麟 ほか有力大名の海外との通商、 豊臣秀吉 の 南蛮貿易 により 南蛮酒 として 古酒 (くーす)と称される 琉球 泡盛 や、 桑酒 、 生姜酒 、 黄精酒 (おうせいしゅ)、 八珍酒 、 長命酒 、 忍冬酒 (にんどうしゅ)、 地黄酒 (じおうしゅ)、 五加皮酒 (うこぎしゅ)、 豆淋酒 (とうりんしゅ)などなどの 中国 ・ 朝鮮 の珍酒や 薬草酒 、さらにヨーロッパからの ワイン も入ってきた。「アラキ」と記される南蛮酒もあり、これには アラビア から 地中海 方面に広く現在も存在する アラック とする説や、戦国武将 荒木村重 の城下である 摂津 伊丹 の銘酒とする説などがある。 こうした国際色豊かな酒の交流は、江戸時代初期の 朱印船貿易 へと引き継がれていった。

一方、織田信長の 比叡山焼き討ち や 石山本願寺 攻撃に代表されるように、この時代の支配者たちは、それまでさまざまな意味で強い力を持っていた寺院勢力を恐れ、執拗に殲滅していった。これによって平安時代中期から培われた 僧坊酒 の伝統は衰滅していき、のちに寺そのものが再建されても、もはや醸造技術が寺院に復活することはなかった。かたわらでは、 鴻池流 や 奈良流 など各地の 造り酒屋 や 杜氏 の流派が、僧坊酒の技術に改良を加えながらこれを承継していくことになる。

日本酒は、こうして中世の末までにいちおう 濁り酒 から 清酒 への移行を完了したと考えられるが、だからといって、これ以後に濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日のそれと同じものというわけでもない。濁り酒は、農民たちが自家製する どぶろく を含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづける。また清酒に関しても、一般的には 片白 (かたはく)や 並酒 (なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ 糠 が雑味として残る、黄金色がかった、今日の 味醂 (みりん)のようにこってりした味であったと考えられる。

近世

僧坊酒を継ぐように台頭してきたのが、室町時代中期から 他所酒 を生産し始めていた、 摂津国 猪名川 上流の 伊丹 ・ 池田 ・ 鴻池 、 武庫川 上流の 小浜(こはま) ・ 大鹿 などの酒郷であった。

奈良流 の 諸白 を改良し、効率的に清酒を 大量生産 する製法が、慶長5年( 1600年 )に 伊丹 の 鴻池善右衛門 (こうのいけぜんえもん)によって開発され、これが大きな契機となって、次第に酒が本格的に一般大衆にも流通するようになっていった。

また日本酒は、 朱印船貿易 により東南アジア各地に作られた 日本人町 やその国の王族などへ輸出された。とくに オランダ東インド会社 (略称VOC)の根拠地であった バタヴィア (現 インドネシア の一部)では、日本酒は定期的に入荷され、人々の暮らしの一部として欠くべからざるものとなったが、ヨーロッパ(おもに オランダ )から届けられるワインに対して日本酒はアルコール度数がじゃっかん高いために、バタヴィアを初めとした東南アジアにおいては、日本酒は 食前酒 、ワインを 食中酒 として飲むという独自の食文化の伝統が生まれた。

いっぽう日本国内においては、江戸時代初期には、後世から 四季醸造 と名づけられる技術があり、 新酒 、 間酒 (あいしゅ)、 寒前酒 (かんまえざけ / かんまえさけ)、 寒酒 (かんしゅ)、 春酒 (はるざけ)と年に五回、四季を通じて酒が造られていた。

酒造りは大量の米を使うために、米を中心とする食料の供給とつねに競合する一面を持っている。そこで幕府は、ときどきの 米相場 や食糧事情によって、さまざまな形で 酒造統制 を行なった。 まず明暦3年( 1657年 )、初めて 酒株 (酒造株)制度を導入し、酒株を持っていなければ酒が造れないように醸造業を免許制にした。 寛文7年( 1667年 )伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良した 寒造り が確立されると、延宝1年( 1673年 )には酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止され( 寒造り以外の禁 )、これにより四季醸造はしばらく途絶える形となった。

こうして酒造りは冬に限られた仕事となったので、農民が出稼ぎとして冬場だけ 杜氏 を請け負うようになり、やがて各地にそれぞれ地域的な特徴を持った杜氏の職人集団が生成されていった。

伊丹酒 (いたみざけ)や池田酒の評判はつとに高まり、元文5年( 1740年 )には伊丹『 剣菱 』が将軍の 御膳酒 に指定された。江戸市中の酒の相場でも、伊丹酒や池田酒は他の土地から酒からははるかに高値で取引されていた。

しかしこのころから 神戸 ・ 西宮 あたりの 灘目三郷 が新興の醸造地域としてすでに注目を集め始める。後世、銘醸地の代表格となる灘が、最初に文献に登場するのは正徳6年( 1716年 )であるが、享保9年( 1724年 )の 下り酒問屋 の調査では、灘目三郷の名が伊丹酒を追い上げる酒の生産地として報告書に記載されている。これが江戸時代後期の 灘五郷 である。

これら 摂泉十二郷 (せっせんじゅうにごう)と呼ばれた、伊丹や灘やその周辺地域で造られた酒は、 天下の台所 といわれた集散地 大坂 から、すでに人口70万人を擁していた大消費地 江戸 へ船で海上輸送された。こうして上方から江戸へ送られた酒を 下り酒 と呼ぶ。

時代により変動があるが、下り酒の7割から9割は、 摂泉十二郷 産のもので、それ以外では 尾張 、 三河 、 美濃 で造られ伊勢湾から合流する 中国もの 、他には 山城 、 河内 、 播磨 、 丹波 、 伊勢 、 紀伊 で造られた酒が下り酒として江戸に入っていった。いっぽう関東側では、 中川 と 浦賀 に幕府の派出所があり、ここで江戸に入る物資をチェックしていた。この調査結果は 江戸入津 と呼ばれ、幕府が江戸市中の経済状態を 市場操作 したり、国内の 移入 移出 の実態を調べるのに活用された。

下り酒は、はじめは 菱垣廻船 で 木綿 や 醤油 などと一緒に送られていたが、享保15年( 1730年 )以降は 樽廻船 として酒荷だけで送られるようになった。

このころは江戸以外の全国各地でも、一般的に造り酒屋によって 製造 ・ 卸 の兼業が行われていたが、とくに江戸では人口が集中して大消費地になったために、酒についても 専門問屋仲間 が成立した。そして江戸に着いた荷をさばく 問屋の寄合い も形成された。いっぽう大坂では、従来の造り酒屋が問屋を兼業していたので、江戸のような専門酒問屋は出現しなかった。このように江戸時代に入り商品化された酒は「商人の酒」といわれるようになった。

幕府から見れば、酒株制度には 酒造石高 をめぐって一つの弱点があり、酒屋ら商人たちがそれをうまく利用すると、幕府に入る酒税が先細りになっていく恐れがあった。そのため幕府は寛文6年( 1666年 )を初めとして何回か 酒株改め をおこなった。ことに 元禄の酒株改め ( 1697年 )は徹底的におこなわれ、このときから宝永6年( 1709年 )まで酒屋には 運上金 (うんじょうきん)も課せられた。

宝暦年間初期は豊作が続いたため、幕府は宝暦4年( 1754年 )に 勝手造り令 を出し、 新酒 を造ることも許可した。このため四季醸造は復活の機会があったのだが、もはや生き証人としてその技術を心得ている杜氏がいなかったこと、また消費者もうまい寒酒の味に慣れ、酒郷ではよりよい酒質を求めて熾烈な競争をくりひろげていたことなどから、以前のような復活に至らなかった。こうして幕府の酒造統制が緊緩を揺らいでいくうちに、四季醸造の技術は江戸時代の終わりまでに消滅してしまうことになる。それが復活できたのは、じつに昭和時代の工業技術によってであった。

天明3年( 1783年 )に 浅間山 が大噴火し 天明の大飢饉 が起こると、幕府は、天明6年( 1786年 )に諸国の酒造石高を五割にするよう 減醸令 (げんじょうれい)を発し、天明8年( 1788年 )にはまたしても 酒株改め をおこない、その結果にもとづいて 三分の一造り令 などが示達された。

松平定信 は 寛政の改革 の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を著しく制限した。

享和2年( 1802年 )水害などに起因する米価の高騰により、幕府は酒造米の十分の一を供出させた。この米のことを 十分の一役米 という。酒屋たちは抵抗、反発し、十分の一役米は享和3年( 1803年 )に廃止された。

文化文政年間は豊作の年が続き、幕府は文化3年( 1806年 )にふたたび 勝手造り令 を発し、酒株を持たない者でも、新しく届出さえすれば酒造りができるようになった。こうして酒株制度はふたたび有名無実化したが、このことはやがて江戸後期から幕末にかけ、酒屋たちのあいだに複雑な 内部抗争 を起こさせることになる。

天保8年( 1837年 )(一説には天保11年( 1840年 )) 山邑太左衛門 (やまむらたざえもん)によって 宮水 (みやみず)が発見されると、摂泉十二郷の中心は海に遠い伊丹から、水と港に恵まれた 灘 へと移っていった。

近・現代

明治 ・ 大正時代

明治5年( 1872年 )、 オーストリア 万国博覧会 に日本酒が出品された。2006年3月現在、日本酒造組合中央会など日本における「公式」といってもよい日本酒の歴史によれば、このオーストリア万博への出品を以て日本酒のヨーロッパへの初めての「輸出」とみなしているようである。

しかし、これはとても正確とは言いがたい。日本国外への輸出は、江戸時代初期に朱印船貿易によって東南アジアに輸出されていた多くの実績があり、とくにそれ以後、日本酒の飲用がその地の独自な食文化の一部として定着をみた、 オランダ東インド会社 の根拠地 バタヴィア (現インドネシアの一部)などを通じて、オランダ経由で日本酒がすでに江戸時代にヨーロッパにもたらされた形跡がある。また、江戸時代後半にはカムチャツカからシベリア経由でロシア帝国がヨーロッパに日本酒を紹介していたことなども明らかになっている。

しかしながら、明治維新を迎えて、日本酒が政府のお墨付きと後押しを受けて表舞台を通じてヨーロッパに入っていったことは事実であるといえよう。

明治8年( 1875年 )、明治政府は、江戸幕府が定めた複雑に入り組んだ 酒株 に関する規制を一挙に撤廃し、酒類の税則を醸造税と営業税の二本立てに簡略化して、醸造技術と資本のある者ならば誰でも自由に酒造りができるように法令を発した。このためわずか一年のあいだに大小含め30000を超える酒蔵がいっきに誕生した。しかし、明治政府が酒税の徴収に目をつけ、酒蔵への課税をどんどん重くしていくにつれ、酒蔵の数は減っていきやがて8000前後にまで減退した。(ちなみに2005年現在では約1500まで減っている。)

酒蔵は無抵抗に明治政府の課税が重くなるのを見過ごしていたわけではなく、さまざまな知恵をこらしてこれに抵抗した。酒税をめぐって、この時期の酒蔵たちと明治政府のあいだで繰り広げられた攻防は、30年近くに及ぶ一つの戦記ものですらあるが、その中で代表的に語り継がれるのが明治15年( 1882年 )の 大阪酒屋会議事件 である。

こうしたなかで、最終的に明治政府は国家歳入のじつに30%前後を酒税に頼るにいたった。 課税に耐えて生き残ることができた酒蔵は、富裕な 大地主 によって開かれたものばかりであった。以前、大地主たちは毎年の収穫から一定量の米を不作や飢饉の時にそなえて備蓄していたものであったが、 備蓄米 はそのまま古くなって無駄になるリスクがつきまとった。そこで彼らは、もはや備蓄することをやめ、その分の米を自己資本でやっている酒蔵へ原料として回したのである。こうした大地主が始めた酒蔵のなかには、そのまま発展して今日の日本酒業界でいわゆる「大メーカー」となっている会社も多い。

数多くの ビール 醸造メーカーも酒類業界に参入したが、清酒メーカーと問屋は、競合品であるビールの進出を阻止しようとした。そのため従来からの問屋はビールを取り扱わず、結果、酒小売店もビールを取り扱わなかった。そこで、ビールメーカーは薬種問屋など新しい 流通 網を構築した。

明治32年( 1899年 )、政府はさらに多くの税収を酒から得られるのではないかと考え、 自家用酒税法 を廃止し、これを以って自家製酒(いわゆる どぶろく )の製造・消費を禁止した。酒の消費を全般的に考えると、本格的な醸造設備がない家庭でも容易に造ることができるどぶろくが大勢を占めている。この製造を禁止すれば、国民の酒の需要は酒税のかかる清酒へと向き、どぶろくが消費されていた分がそっくり清酒の消費となって歳入にはねかえってくるのではないか、というのが狙いであった。しかし結果的にいえば、この目論見はみごとにはずれた。 日露戦争当時のどぶろく禁止令は、構造改革特区など少数の例外をのぞいて 2006年 現在でも酒税法に残っているが、酒税による税収は国家歳入の2%に満たない。

日清戦争 ( 明治27年 ( 1894年 )− 明治28年 )の勝利による賠償金の獲得などによって余裕のできた明治政府は、鉱工業などと並んで醸造業の発展も積極的に支援し、そのため明治後期には飛躍的に技術の進歩が見られた。 明治37年 ( 1904年 )、 大蔵省 の管轄下に 国立醸造試験所 が設立され、 明治42年 ( 1909年 )には 山廃? が開発され、翌年( 1910年 )には 速醸? が考案された。 明治44年 ( 1911年 )には、国立醸造試験所によって第一回 全国新酒鑑評会 が開催されるに至った。

こうした背景には、近代以前はいわゆる「 科学的再現性 」が酒造りにおいては大問題だった、という事実がある。たとえ良い酒ができても、「同じものをまたつくる」ということが不可能に近かったのである。麹と水を合わせる過程においては、空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、その蔵に昔から住みついている酵母(いわゆる「家つき酵母」)の力に頼っていたが、株が一定せず、醸造される酒は品質が安定しなかった。しかし明治期に入ると、西洋の 微生物学 が導入され品質の安定と向上が図られるようになった。 全国新酒鑑評会が定期的に開かれるようになると、国立醸造試験所(のちの財団法人 日本醸造協会 )が全国レベルで有用な酵母を採取し、鑑評会で一位となるなどして客観的に優秀と評価された酵母を分離、純粋培養して頒布した。(本ページ「 酵母 」、参照。)

また明治以前の 酒樽 は木製で、樽壁の中に雑菌が生息していることもあったので、衛生上の問題があった。この問題を解決するために、今日のような 琺瑯 (ほうろう)で表面を加工した鉄製の酒造タンクも開発され、政府もこの普及を推進した。 たしかに 木樽 は不衛生な点があったが、一方では醸造する酒の3%前後を樽の木材が吸収してしまい、結果的に酒の生産量を目減りさせていた。それが税収の目減りに直結するため、明治政府は琺瑯びきタンクの普及に躍起になっていたのだ、とする説もある。のちに平成時代になって木樽造りも再現されてきている。

昭和時代 以降

昭和12年( 1937年 )、 日中戦争 による 米不足 で酒の生産量が減少し、水で薄めた「 金魚酒 」が横行し始めたため、昭和15年( 1940年 )にアルコール濃度の規格ができ、政府の監査により 日本酒級別制度 が設けられ、「特級酒」「一級酒」「二級酒」という区分がなされるようになった。この制度は平成4年( 1992年 )まで続いた。

昭和16年( 1941年 )、 太平洋戦争 が始まり米不足に拍車がかかると、昭和18年( 1943年 )酒類は 配給制 となった。戦後、配給制が解かれ 昭和24年 ( 1949年 )5月6日には酒類販売の自由化がなされた。配給制から自由化に移行するに当たって、各都道府県に指定の卸が置かれることとなった。この卸の役割を担ったのが清酒メーカーであった。そのため清酒の主な販売経路となっていたようである。

昭和初期( 1930年代 )に精米技術が発達し、これがやがて 吟醸酒 を誕生させる端緒となる。 1970年代 には、 醪 (もろみ)造りの工程における温度管理の技術が飛躍的に発達し、初めは少量であったが 吟醸酒 ・ 純米吟醸酒 などが出荷されはじめた。吟醸系の酒が広く市場に出回るようになったのは 1980年代 のことである。

1980年代 には、バイオテクノロジーの進歩に伴い、都道府県の研究センターなどを中心として吟醸酒に適した新たな 酵母 の開発が進んだ。これは バブル経済 ともあいまって、吟醸酒ブームなどの波及効果を生んだ。近年では、地域の特性を生かした 酵母 や 酒造好適米 の開発が進んでいる。

消費低迷期

昭和26年( 1951年 )の進駐軍撤退、日本独立後、日本酒の消費は伸び続けたが、 国税庁 発表の資料によれば昭和48年( 1973年 )を境に減少へと転じ、平成14年( 2002年 )には全盛期の半分近くまで落ち込んでしまっている。このような長期低迷のの原因としては以下のようなものが考えられている。

(1) アルコール離れ

とくに若年層や 健康志向 者がアルコール飲料を飲まなくなったことで、日本酒の消費が長期的に減少してきているとする説。じつはこの「アルコール離れ」なる現象は、英語で"disalcoholization"という新語も提案されているほど世界的な傾向で、ワイン消費大国フランスでもアンケートで「ワインをほぼ毎日飲む」と答える人は1980年には51%だったのが2005年には21%と大きく減少しており( フランス全国ワイン業者組合 2005年調査)、醸造業者は頭を痛め食文化そのものの変容を嘆く声も出始めている。 過度で継続的なアルコール摂取が肝臓や胃腸をはじめとした臓器に害を及ぼし、またそれが 嗜癖 となると アルコール依存症 になり、 脳 の萎縮を早め 認知症 の原因となるなど、飲酒が及ぼす健康面へのさまざまな悪影響は否定できない。 しかし一方では、成人においては、まったくアルコールを摂取しない人よりも、適量に飲酒する人の方が、結果的に肝臓や消化器系においても癌などになりにくく総合的な死亡率も低いといった研究や、アルコールを飲まない人はそのぶんだけ 薬物依存 、 喫煙 がやめられなくなる ニコチン嗜癖 、 過食行動 を初めとした 摂食障害 、いわゆる「キレやすい」といった 暴力嗜癖 や 虐待 嗜癖 、 テレビゲーム を初めとした テクノ嗜癖 などなど、多種多様な不健康な嗜癖にはまりやすいといった研究も多数発表されており、いちがいにアルコール離れが健康によく、飲酒が健康に悪いとは言えないようである。 とくに日本酒においては、日本酒に含まれる何らかの成分がガン細胞増殖を抑制する働きがあるらしい、ということもわかってきており、「アルコール離れ」にはまだまだ議論が期待できそうである。

(2) バブル経済 の影響

これは日本の他のほとんどすべての経済分野と共通である。のちの項目で詳述される三増酒が、1980年代に入ってからも売れ続けていたということが、このことを一端として物語るであろう。

(3) 日本人の「欧米志向」

明治維新 以来、いや 黒船 来航以来、日本人の中に通底音として響き続け、断続的に表面に出てくるのが、この「欧米志向」である。平たくいえば、「日本酒はオヤジの飲むダサイ飲み物、ワインはもっと文化的でおしゃれで上等な飲み物」と思い込んでいる日本人が多いということである。

(4) 愛好者の閉鎖性

日本酒をよく飲む人というと「味にうるさく」「気難しく」「頑迷固陋なジジイ」というイメージが一般にあるのが一因とも言われている。少なくとも開放的でポップな気安さや軽さがない。それが日本酒愛好者に新規参入しようかと考える人々にとって、「へたなことを言って馬鹿にされるだけなんじゃないか」という躊躇をもたらし、新たな消費人口への敷居を高くしている側面があると思われる。

(5) 三増酒 の流通

戦後50年以上にわたって流通した日本酒の主流が三増酒であったことが現在の消費低迷を招いたということは、日本酒固有の問題といってよいだろう。取り扱いにくい問題であるが、日本酒の近・現代史、現在、未来を考えるうえで、避けては通れない話題であるともいえる。 三増酒 が何たるかについては、その別項にゆずるが、以下に挙げるようないくつかの要因が幸か不幸かみごとに方向性を一にしてしまい、戦後も長らく流通した日本酒の大半が三増酒となっていった。 (a) 政策 前述したような昭和初期の 食糧難 や 米不足 から、当時の政府は米を配給制にするなど、日本人の主食であった「米」に大きく政策的に関与した。昭和30年代になり「もはや戦後ではない」と言われるような物質的に豊かな時代がなってもしばらくは、それを持っていかなければ米が買いにいけない、 配給米 時代の名残りともいえる 米穀通帳 というものが各家庭にあったくらいである。こうした政策のもとでは、品質を追及するよりも、質は問わずに量だけ生産していく酒造りをおこなっていくほうが、時流に乗っていて経済的リスクも少なかったのである。まず、三増酒が大量生産されていく下地として、このような経済環境があった。 ほかにも、政府や 地方自治体 にとっては、各地の大小の酒蔵メーカーが生産量をあげ、見かけ上の収益を増加させていってくれたほうが、 歳入 ・ 税収 が増えるという、なおざりにはできないメリットがあった。 (b) 生産者の意向 どんな品質の日本酒でも造れば造るだけ売れるという当時の経済環境のなか、零細な地方蔵から、大資本をもつ大メーカーに至るまで、多くの酒造メーカーが量産主義に走った。その結果が質を落とした三増酒になったといっても過言ではない。なかには「 桶売り ・ 桶買い 」といって、零細な地方蔵が産した地酒をタンクごと大メーカーが買い取り、大メーカーはそうして集めたあちこちの地酒をまぜあわせたり、自社醸造の酒の割り増しに使ったり、あるいはそのまま自社ブランドの瓶に詰めて販路に乗せたりした。酒は瓶に詰めて出荷された時点で課税対象の商品となるので、桶売り・桶買いの段階では取引に関わる納税の義務が生じない。それゆえ地方蔵にとっても大メーカーにとっても、これは経営上、重要な節税のテクニックでもあった。このため「 未納税取引 」とも呼ばれる。 しかし、このような流通システムでは、ほんらいの 地酒 の味が活きず、流通しなかった。また桶売りは、売る側にとっては、買い手である大メーカーの言うままになって酒を造っていればよかったので、そこの蔵の本来の持ち味が失われていった。このため三増酒の時代が終わり、地酒復興の波がやってきたときに、桶売りに頼っていた蔵は自立ができず、また買い手からも取引を打ち切られて、多くが衰滅していった。 (c) 消費者の需要 酒造メーカーがどんなものでも造れば売れたという時代の背景には、もちろん消費者たちの選択と責任があった。つまるところ「酒だったら何でもいい」「酒は味わうためでなく酔うために飲む」といった価値観を持った大量消費者(いわゆる「呑んべえ」)たちの欲求や需要が、安価な三増酒の消費を促進していった側面は否定しさることはできない。 だが、その背景として語られなければならないことの一つとして、当時は現在よりも アルコール依存 (当時はむしろ アルコール中毒 / アル中 と呼ばれた)に対する認識が低かったということがある。 飲酒運転 にかかわる罰則も今よりはるかにゆるく、大学の コンパ などでは今では立派に犯罪となるような「先輩からの強要」や「 イッキ呑み 」などが日常的に行なわれていた。いわゆる 新歓コンパ から新入生が 急性アルコール中毒 で救急車で病院にかつぎこまれ、そのまま死亡するケースも多くあった。 以上のような要因で量産された三増酒は、六割以上が醸造アルコールや糖分、調味料などなので、けっして味覚的においしくないばかりか、悪酔いを残すなど飲み心地も悪い特徴がある。 若いころに三増酒を年上の酒呑みから飲まされた世代は、そういうものが日本酒だと思い込んでしまい、そのまま現在に至っていることが多い。そういう世代は、大人になり自分の選択でアルコール飲料を買いに行くようになると、日本酒には見向きもせず、ビール、焼酎、ワインなどを選択するようになった。これも明らかに、昭和後期から現在に至るまでの日本酒の消費減退の根深い伏線となっていると思われる。

これに対して、いま日本酒業界は長期低迷を脱皮しようとして、さまざまな試行錯誤を重ねており、むしろ品質的には、古代に日本酒が最初に醸されて以来、もっとも洗練され錬磨された水準に達しており、そのことは世界的にも評価されているが、いまだにそれは日本国内の日本酒の消費回復に直結していないようである。「三増酒」という言葉すら知らずに「日本酒とはああいうものだ」という固定観念を極めて深いところに持ってしまっている世代は、なかなか三増酒でない真の日本酒に眼を向けようとしていないのが現状と思われる。(平成17年( 2005年 )現在。)

辛口ブーム

1980年代 から現在にいたるまで、日本酒をめぐる無視できない潮流として辛口ブームがある。

このブームの到来の理由として、以下のようなものが考えられる。

第一は、三増酒への反動である。

それまでの三増酒が、水飴などの糖類を加えた甘ったるい味が多かったので、「甘い酒」=「悪い酒」といった一方的なイメージが消費者のあいだに定着し、その反動として、三増酒の時代が本格的に終わった1980年代後半からは日本酒においては 辛口 に価値がおかれるようになった、とする考え方である。

第二に、ビールからの影響である。

昭和62年 1987年 に、あるビールの大手メーカーが辛口であることをセールスポイントにかかげたヒット商品を売り出し、これが大ブレークし、やがて日本酒にも「辛ければ辛いほどおいしい」かのような定式が波及してきたことも考えられる。

第三に、食生活、とくに外食産業における主流となる味の変化である。

第四に、時代の空気である。

ポストモダン などという語がもっともらしく語られ、 重厚長大 に価値をおいた前世代への反感と反省から 軽薄短小 を新たな時代的価値とした1980年代の空気が、奥行きや深さや旨みのある味よりも、軽く明快な「辛口」を日本酒に求めた、とする考え方である。 たとえば新潟では、以前はもっと堂の入った旨みやほのかな甘みを持った地酒の産地であったが、これ以後「端麗辛口」が新潟の酒のキャッチフレーズのように思われる風潮が生まれた。 端麗辛口とされる条件の一つとして、酒の透明度の高さがあるが、そこには、かつて 鑑評会 に、酒に色がつくことを減点対象としていた時代があり、そのため透明度の高い酒が評価されるようになっていた。酒の色を抜く方法として一般的なものは、活性炭などによる炭素濾過であるが、たしかに濾過は色とともに雑味も抜くものの、これが過ぎるとその酒が持っている旨味も抜けてしまう。そのため濾過は、蔵人たちのあいだで「炭屋」と呼ばれる濾過工程の専門家がいるほど難しい作業である。

こうしたさまざまな経緯から、ここ二十年余り辛口ブームは続いてきたが、今に至って同じ銘柄でも辛口版と甘口版を造って世に問う醸造元や、 無濾過 濁り酒 霞み酒 などどっしりとした造りをセールスポイントにする酒が増えてきたところをみると、バブル時代に生んだ辛口ブームの行方も非常に関心が寄せられている。

さて、昭和15年( 1940年 )に始まった 日本酒級別制度 への批判が高まり、平成4年( 1992年 )にはこれが完全に撤廃された。それに代わって日本酒の分類として平成2年( 1990年 )から使われるようになったのが、のちに分類の項で詳しく述べられるような「 普通酒 」「 特定名称酒 」など9種類の名称である。

日本酒に関する古文書

日本酒にまつわる事件

 

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